創世記22.1-2、9a、10-13、15-18・詩編116.9+12、16+14・ローマ8.31b-34・マルコ9.2-10
四旬節第2主日は、キリスト教の信仰の持つ意味をもっと深く理解するために、じっくりと考えるべき多くのポイントを私たちに与えてくれます。信仰と従順、キリスト教においての犠牲、そして、神さまと神さまのご計画への信頼について黙想しましょう。
今日の第一朗読は、アブラハムの揺るぎない信仰と神さまへの従順さについての物語です。私たちは、アブラハムのような深い信仰と従順さを持っていないかもしれませんが、キリストのうちにある生き方を望む私たち一人ひとりにとって、アブラハムの信仰と従順の深さは、じっくりと考える価値があるものです。アブラハムの信仰と従順から学ぶことのできる教えは、信仰のうちに、神さまのご計画に対して全幅の信頼を置く事が必要だという事です。神さまの永遠のいつくしみと豊かな愛は、私たちの信仰の基盤となるものです。私たちが進む道の歩みひとつひとつに、私たちは、すべてを知っておられる神さまへの信頼を置くのです。
アブラハムは、彼の信仰と従順の深さをよく表しています。神さまからの呼びかけに応える彼の犠牲に対する認識は、私たちには考えられないものかもしれませんが、しかし、これが彼の認識なのです。神さまの救いのご計画の軌跡をたどっても、私たちは、イエス様が究極の犠牲をなさった事を知るようになり、そして、実際に、イエス様がご自身を究極のいけにえとされた事をより深く実感できます。同時に、私たちは皆、キリスト者としての犠牲についての理解を見直すようにと勧められていますが、日々の生活の中で、何かしらの犠牲を捧げるようにと召されているのです。
ですから、福音のための日々の犠牲に対する認識を、私たちがどこまで考えることができるのかという事が、私たちの今日の黙想の重要なポイントとなります。勇気を持って、この世界にある物を失う事をもう恐れない自分自身を思い描くのです。神さまの愛と永遠のいつくしみと神意が失われる事はありません。
イエス様の十字架上でのご受難と死が差し迫る中、高い山に登ったペトロと、一緒にいたイエス様の弟子たちは、神さまの栄光のいわゆる特別な恩恵という経験をしました。彼らの特別な恩恵は、少なくともその時代に、来るべきイエス様の十字架上でのご受難と死に対する弟子たちの不安を減らすために、神さまの弟子たちへの愛によってもたらされたものでした。今日の福音朗読をひたすら読み聞きすることで得られるもう一つの教えは、キリスト者としての真の生き方において得ることができる特別な経験です。キリスト者としての真の生き方を積極的に受け入れることで、神さまの愛と神意という実りが得られます。私たちの心の中や社会の中に不安があるにもかかわらず、そして、自分を愛するように隣人を愛する事において、もしかしたら偽善や凡庸かもしれなくても、この実りとは、現代での神さまの栄光の特別な恩恵という経験なのです。