イザヤ5:5-7、詩編80:9+10、15+16、18+19、フィリピ4:6-9、マタイ21:33-43
「神さまが信頼を置かれている民は、無責任な働き手です。
私たちはその理由を知るようになる...」
日々の回心と、より寛大な心を得るための意欲を高める言葉
ここ数週間の日本のカトリック教会の意向は、共に祈り、すべての命のためにさらに祈り、命を守ることとすべての被造物への心配りに対しての、より深い意識を強めるということでした。私たちは、先週の水曜日のアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日に、すべての被造物への心配りとすべての命を守るための祈りを込めた時間と黙想を終えました。
今日のテーマは、先週のぶどう園のたとえとそれほど違いはありません。ぶどう園は、神さまの王国を象徴していて、働き手たちの役割は、ぶどう園の世話と真の実り豊かなぶどう園にするための働きに対する、神さまの民としての責任を表しています。
一般的に、神さまのぶどう園は、神さまの民が見つけることのできる場所であると、通常、私たちは理解しています。神さまのぶどう園は、私たち一人ひとりの家庭と職場と休養のための場所さえも、そして、私たちにとって全くの別の人びとと考えてきた人びとの場所とを含んでいて、より多様でより広いものとしてよく理解されています。
より広いビジョンでは、神さまの民が、世の中の事の愛着から「すでに」解放され(権力や支配や富を失う事への恐れから解放され)、そして、遠近にかかわらず熱意と献身をもって派遣され、喜びに満ちた働きをするのを見ることができます。時々、神さまのぶどう園で、私たちがどのように働いているのかを黙想することも、私たちの務めです。
けれども、神さまの民の尊い召命を持ちながらも、王国で神さまの民がどのような行いをしているのか、私たちは、大抵いろいろな行いに出会います。それは、聖書にあるたくさんのいろいろなたとえ話によって明確に示されています。
ぶどう園が象徴しているものと働き手たちの役割が表しているものについて話を戻すと、今日の福音朗読のぶどう園のたとえは、働き手たちの行いに対しての地主のいつくかの失望を表しているようにみえるかもしれません。私たちは、ぶどう園が象徴しているものと働き手たちが表しているものに忠実に「神さまが信頼を置かれている民は、神さまのぶどう園の無責任な働き手たちである。」と結論付ける事ができます。
神さまのみことば(聖書)を心から聴くことと読むことについて私たちが深く考えることで、地上におられた時のイエス様のまわりにいた人々が、彼らと共におられたイエス様の存在に対して、どのように行動していたのかを、私たちは、もっともっと学ぶことでしょう。新約聖書の中でしばしば述べられている祭司長たち、長老たち、律法学者たち、ファリサイ派の人たちは、彼らの権力と支配への魅力と、自己中心性と物質的なものへの執着と、内面的なものよりも外見を大切にすることを乗り越えるのが困難であったので、イエス様のお考えや方法を理解するのに苦労していました。彼らは、神さまが誰であるのかを一見完全にみえる彼らの持つ知識によって、人々に対して傲慢に教えていました。最終的に彼らは、イエス様ご自身が救い主であるという宣言されたことによって、何も得ることができず、イエス様を拒絶し十字架に架けることで、彼らには、自分自身を守るという選択肢しか残されなかったのです。
現在の神さまの民(私たち)は、その当時の祭司長たち、長老たち、律法学者たち、ファリサイ派の人びとの仲間にならないように、最善を尽くしています。他の人びと(私たちの隣人たち)は、神さまのぶどう園での私たちの行動/態度に対する証人です。さらに、私自身が、神さまのぶどう園で働いている間の自分の態度と目的の証人なのです。
私たち一人ひとりと共同体の信仰と祈りの生活のうち成長するために、私たちがいつも考えている基となっているものについての黙想を続けていきましょう。たとえば、いつものように秘跡を受けることで、とても重要だと思われる目に見えるしるしが確かにあります。私たちの典礼をより意味のあるものとし、私たちの心が神さまと繋がるための助けとなる、目に見えるしるしや象徴はたくさんあります。私たちが重要だと考えている、これらすべての目に見えるしるしや象徴(物質的なもの)が、「最終的な目的」となりませんように。(その目的を忘れて、規則を厳しく遵守することになりませんように。)これら全ての目に見えるしるしと象徴は、唯一、神さまの愛とゆるしを指し示しています。私たちが、これらの目に見える基から心を遠ざけた時(目に見える物質的なものを一切取り払った時)、私たちは、目に見えない基のもとで、信仰と祈りの生活のうちにどれほど成長し、教会の宣教司牧にどれほど参加してきたかを知る事ができるでしょう。
もし、私たちが、何人かのその当時の祭司長たちや長老たち、律法学者たちやファリサイ派の人びとの考え方ややりかたから自分たちと距離を置く(離れる)ことを望んでいないならば、よい農作物を作ることができず、おそらく期待していたものとは全く違う農作物という結果になるでしょう...そして、私たちは、ぶどう園の働き手としての責任を果たすことができず、無責任な働き手である神さまの民であり続けるでしょう。