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思い出

by 今井章夫 (Lolo Fumio)


アルセ神父様が唐崎教会に初めて見えたのは2009年のご復活の頃だと記憶している、あまりにも若くボンボンに見えたのは私だけではなかったかと思います。また、来られた時から日本語が堪能でありましたのは皆さん何よりも安心されたと推察されます。来日が2006年との事、日本語学校で勉強もされ凄く早くマスターされたものだと感心させられました。生まれた日は昭和47年(1972年)3月か4月と記憶しております。

住まいの大部分は大津教会の司祭館でした、短期間ではありましたが、ある時期唐崎教会にも住まわれた事がありました。いずれにしても神父様は大変開放的で司祭館には誰彼となく訪れ、食事や音楽等でその場を盛り上げられ楽しい時間を皆さんが過ごされました。(フイリッピン的習慣かも?)

勿論のことではありますが、フイリッピンの人達との接触は当然でありますが、日本の信者の皆さん達との交流も同様にされました。フイリッピンの人達の多くは女性の方で、日本人と結婚され未知の生活で苦労され、或いは離婚して夜の仕事で糧を得られ生活されてる方、様々な人達の相談にも乗ってこられ、で苦労されたとおもいます。私が耳にした事でも「自殺したいと言う女性がいるの!」とか「自殺してしまった女性」とかを聞いた事もありました。

赴任後一年後には大津市周へんのフイリッピン人のコミュニティを立ち上げ、モデラトールも選出し教会の中での一員としての役割を果たすよう築き上げられました。

然し、この様に明るく振舞われた神父様にも神父様としてのストレスもあったかも知れません、胃潰瘍症状が長く半年くらい続いた事も。私自身、そんな開放的な神父様に惹かれて、2回の渡比経験をさせて頂きました。そのうち一回は個人的に、一回は宇治教会の人達10人余りと巡礼と言う形で神父様の故郷周辺の教会巡り、マニラ市内のフイリッピン宣教会と市内の教会、史跡(高山右近の銅像)を巡り、歴史的な教会に浸る事が出来ました。湖西ブロックの司祭として僅か2年で、山城ブロックの宇治教会へ移動されました。この2年間私にとりまして凄く濃厚な2年間になりました。この原稿を書くにあたって時間経過を調べましたが、そんなに短かったのかな?と疑いました。宇治教会に行かれても相変わらず信者の皆さん、フイリッピンの皆さん達との司牧、コミニケーションも蜜にされていました。

ある日の事、フイリッピン宣教会を退会するとのメールを頂き大変驚きました。フイリッピン宣教会と京都教区との契約もあり、関連して京都教区には在籍出来なくなることですから!!。詳しい理由についてはお仰いませんでしたが、神父人生を180度ひっくり返さなければならない決断をされた事になります。アルセ神父の最も苦しい人生を迎えることになり、放浪生活が始まりました。フィリッピンと日本との行き来もありましたが、日本での司牧、フイリッピン人との架け橋どなり司祭としての役目を果たしたいと強い決意のもと、日本の各教区へ交渉を知り合いを通して行っておられましたが、底辺にはフイリッピン宣教会との関係もあり、各教区共懸念され簡単に返事は頂けなかった様です。その間、時々神父様とお会いいたしましたが、「神様のご意思に従うまでよ」と深い信仰のもとで苦悩の表情は見せられず、普段の表情でしたので、大丈夫かな と案じつつ どうしようもない自分の無力さを感じました。日本での仕事もビザの滞在目的により制限されており、その範囲内の仕事として英語➞日本語の通訳のアルバイトもされた様です。

またもビックリある日突然、神父様からのメールが入り、横浜教区の韮崎教会にいるから来てくださいとの事でした。今年の3月のことです。車を飛ばして行ってみると神父様の誕生会とお別れ会をするとの事でした。韮崎教会へは韓国の神父様が突然亡くなられその後任として派遣されており、(多分1年くらい前からかな?)復活祭後の人事異動で横浜の都市部への転勤が決まったためのお別れ会でした。韮崎教会でも神父様は皆さんに慕われてお別れ会も大賑わいでした。横浜市内の教会への転勤で教会の名前を教えて頂いたのですが、名前は忘れましたが高架のJR駅の近くで凄く賑やかな場所だと聞きました。

ところが最近12月11日(火)に川崎市の鹿島田教会に赴任していると言う事で最近の様子をお聞きするためいって参りましたが、高架JR横の賑やかな場所ではなく新しい高層ビルの建ち並ぶ谷間にある教会でした。神父様は相変わらずのキャラでお元気でした。午前7時からの朝ミサと横浜ふ頭の辺りを神父様と散策し素晴らしい時間を与えられました。

色々な話の中で、神父様の一生をかけて、いや二生、三生をもかけても、やり遂げたい理想話も聞きました。神父様は子供の頃から(兄さんの病気きっかけ)聖マルチノ デ ポレに憧れ、自分も聖マルチノの修道生活を見習いたいとの心が奥にあり、自然と神父の道を歩ませたのではないか?とのいきさつも話して下さいました。そのために苦しんでいるすべての人、精神的ななやみを抱いている多くの人が安らぎを求められる施設を作り癒してあげたいとのことでした。 聖・マルチノ デ ポレは1579年ペルーで生まれ、父から8才まで子供と認められず、洗礼証明書には「父親不明」と書かれている。次の女の子が出来た時から父は家を出てしまい母との極貧な生活を余儀なくされ、母から理髪店に行くよう勧められ理髪の仕事をしながら、多くの勉強を独学で学び、外科医の勉強もし、修道会に入り祈りに多くの時間をさき、皮膚の色、社会的な身分を問わず、貧しい人にも奉仕し、病人の世話し、人だけでなく動物までおも愛し沢山の人にあがめられました。1962年に教皇様から聖人に列せられ 理髪師の保護の聖人 とも呼ばれたそうです。(アシジの聖・フランシスコと同じですね。)

 

アルセ神父(現在当地ではエソ神父)の遠大な望みが叶えられますようお祈りしたく思っています。

​「メモ:カトリック唐崎教会のきずなによる出版もあり」。

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