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2024年10月27日・年間第30主日(B)

エレミヤ31.7-9/詩編126.1+2ab,2cd+3,4+6/ヘブライ5.1-6/マルコ10.46-52

 

今日は、私たちの冷たさを心の底から認めて、ほんとうのキリスト者としての信仰の精神を大胆に言い表し、キリストのうちにある洗礼の意味することを具体的に忠実に生きることによって、分かち合う事を始めてみましょう。この冷たさはどこから、あるいは、どんな

理由で、私たちのこころにもたらされるのかを、自分たちに問いかけることができれば、

助けとなるかもしれません。人々のこころの中にたくさんの痛みや絶望を伴い、深く考えることなく、確実に、疑念や不信感へと陥り、最終的には、愛といつくしみの神さまへの

信仰を失ってしまいます。けれども、私たちの教会の歴史を振り返ると、現在の私たちと

同じような痛みや絶望を伴いながらも、多くの人々は、人類の弱さ/現実に打ち勝ち、

熱心な祈りと天の父である神さまのみ心への信頼と従順をお捧げしてきました。歴史の

中で、私たちより以前の「忠実な世代」の人々に対して、神さまは、とても誠実であられ

ました。私たちは、人類の持つ現実の中で、現代の人々を救い元気づけて下さる、同じ

神さまを信頼しています。

 

今日の福音朗読にあるティマイ(バルティマイ)の子の話で、私たちは、確かに信仰は

賜物であるという事を、いずれ気付く事でしょう。賜物は、自由に受け取られ、私たちは、信仰の賜物を自由に言い表し、分かち合うようにと召されています。(そして、その権利を持っています。)イエス様のアイデンティティと使命のうちにある信仰と、イエス様の

使命が、私たちを救うのです。

 

信仰のうちに人生の半分以上を生きている多くの人々にとって、信仰のない生き方は、考えられないかもしれません。同様に、教会の導きにそって、信仰と奉仕の生活を捧げてきた

人びとにとっては、教会の中での特に管理面やその証言において不備があるにも関わらず、教会から離れてしまう事など考えられない事かもしれません。それが、何の信仰で

あっても、私たちの信仰がどんなに浅いものであっても、問題や困難な事が起こると、

私たちは、簡単にあきらめてしまいます。しかし、私たちは、小さな信仰から、神さまの

定められた時に、ほんとうに深い信仰へと導かれているのですから、何も心配する事は

ありません。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。

苦しみか。艱難か。危険か。飢えか(ローマ8.35)。人や物や心配事が、私たちが

イエス様に近づくのを妨げることがありませんように。イエス様のうちに、ほんとうの

回心の経験を私たちが見出すという事は、私たちのあるべき姿や成すべき事のすべての

方向性を与えてくれます。私たちと私たちのまわりの多くの隣人たち、そして、遠く離れた隣人たちの目が見えなくなっているのは、ただ一時的な事であると、強く信じましょう。

なぜならば、神さまの愛といつくしみは、すべての人類の障害の上に注がれている

ですから。

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