ダニエル7.13-14/詩編93.1+2,3+4,5/黙示録1.5-8/ヨハネ18.33-37
荘厳な王であるキリストの祭日である今日、黙想のための少なくとも2つの重要な
ポイントが私たちに示されています。第1のポイントは、すべてを超えるイエス様の権威についての、私たちの理解と認識を振り返る事です。つまり、この権威は、すべてのものの
最も偉大なる指導者であるイエス様の使命を、私たちが理解するようにと招いて
いるのです。第2のポイントは、私たちは、私たちの救いのためにイエス様が究極のいけにえとなられたことでは、イエス様の王権を示しているという理解を振り返ります。またわたしたちはイエス様の王権は奉仕者(僕となり)でもあることをもっと理解してまいります。王であるキリストの祭日は、すべての命あるものの中でのイエス様の王権を荘厳にお祝いし、サーバントリーダー(自らが僕となり、導く者)であり、救い主であるイエス様の
使命について黙想し続けるようにと招いているのです。
さらに、私たち皆のサーバントリーダーであり、救い主であるイエス様の王権と王国は、
すべての人々、民族、言語の人々のためのものであると示されています。ですから、
私たちは、地上のすべての人々、キリスト者だけでなくキリスト者でない人々のためにも、イエス様の王権をお祝いするのです。
私たちには、隣人たちを祈りへと導く機会や能力がたくさんあったかもしれませんが、
それらの事を自ら無視してきました。私たちは皆、兄弟姉妹たちがお互いにより良い関係を持つような機会があったかもしれませんが、地上での出来事の中で、人々の集まりの間での心象を悪くしたり、「面目」を失う事への恐れから利己的に自分を守るという個々の
個人的で自己中心的な動機のために、キリストの平和と平安、赦しといつくしみをもたらす道具となることができませんでした。私たちは、教会の中でリーダーシップを分かち合ってきたかもしれませんが、本当のサーバントリーダーにはなれなかった事が何度あった
でしょうか。
教会の典礼暦の、この最後のミサでのすべての朗読で繰り返されている神さまのみことばについての黙想を、ちゃんとまとめてみましょう。私たちは、福音にはっきりと書かれているみことばによって、十分に導かれ、勇気付けられるために、主日のミサに来ています。
私たちは、イエス様のご生涯と、私達のために捧げて下さったイエス様のご受難についての1年間にわたる黙想を終えるために来ています。私たちは、教会暦と信仰生活の新しい年を始めるために、何らかの形で価値のある祝福された者となり、とても豊かに黙想して
きたという最高の希望を持つのです。