使徒言行録4.8-12・ 詩編118.1+2、16+17、22+23・1ヨハネ3.1-2・ヨハネ10.11-18
神さまの永遠のいつくしみと、ご復活されたキリストがお与えになった平和を、
私たちが忘れてしまう事のないようにと願っています。私たちの日々の生活の中で、この
変わる事のない神さまのいつくしみと平和は、私たちのイエス様へのさらに深い理解の礎となっていきます。
この世界と人類の持つたくさんの弱さの故に、たびたび人々は、この地上でキリストの平和が本当に成し遂げられるのかという疑問を持ちます。恐ろしい病気や絶えることのない不正、強欲さによって様々な形でもたらされる差別、この世での多くの権力と富への追求という中で、私たちひとりひとりが、神さまのいつくしみをどのように体験するのか
(どのように体験できるのか)、たびたび人々は疑問に思います。それは、自分を守り、
自分を保護するという本能で、私たちがこの世のものへの愛着を正当化しなければならない事へのとても多くの理由となります。
私たちが神さまのみことばをもっと深く黙想するために、私たちにとって理解することがとても難しい事柄が必要なのだという事を認めましょう。そして、誠実さから善良さへと心の静寂を保ち、私たち皆を神さまのこどもとして逃れ場と安息の地へとお集めになる
ために、初めの時から私たちを愛して下さっている、目には見えない神さまのお導きの
みことばに対して耳をかたむけ、心を尽くして深く考えましょう。私たちの神様は、意味もなく神さまの子どもたちが離れ離れに散らされていく事を望んではおられません。
イエス様は、ご自分の事を「良い羊飼いである」と言っておられます。
ここでは、イエス様の言われる羊飼いは、具体的に、ただ羊小屋の世話をする雇い人の羊飼いとは異なるものとして区別されています。なぜならば、雇い人は自分の羊を
持たないので、オオカミが現れると羊を置き去りにして逃げてしまうからです。
良い羊飼いの日曜日では、私たちとイエス様の間にある、お互いの愛の絆と深い関りについて、さらに良く説明されています。イエス様のご受難と死とご復活のうちにある
私たちの日常生活について、できる限りの理解をすることで、私たちはイエス様と最大限の一致を果たし、イエス様の羊小屋にとどまり、そして、私たちは他の人々に対しても、
私たちが今いる羊小屋へと導きます。私たちの世話をしてくださり、オオカミから守って
くださるイエス様に、私たちは全信頼を置き、他の全ての人々のためにも羊小屋の扉を開け放っているのです。
修道者と司祭の召命のために祈りましょう。彼らの羊飼いとしての役割と、神の民に
対する献身と責任が、良い羊飼いであるイエス様と、そして、イエス様の羊飼いとしての
生き方とに最大限の一致を果たすことができますように。
私たちも、私たち一人ひとりが、そして、すべてのキリスト者の共同体が、いつも
イエス様を私たちの良い羊飼いとして受け入れ、そして、いつも、どんな時でも、
イエス様のお声を聞くことができますように、祈りましょう。