出エジプト16.2-4,12-15/詩編78.3+4,23+24,25+54/エフェソ4.17,20-24/ヨハネ6.24-35
「いのちのパン」の話は、神さまの存在と心配りについて広く理解させてくれます。
ここでは、イスラエルの人々がエジプトから逃れた後も、神さまのイスラエルの人々に
対する誠実さをたどっていきます。私たちは、少なくとも今日の第一朗読から、モーセや
アロンに対して飢えている事で不満を言っているイスラエルの人々に、神さまがどのように応じられたのかを知る事ができます。けれども、同じ信仰共同体(イスラエルの共同体―
昔のエルサレムの共同体)は、神さまの力と心配りを何回も忘れてしまい、少なくとも
疑いを持ちました。
ちょうど先週の黙想のポイントで、私たちは「いのちのパン」の話についてのヨハネによる福音に焦点をあてました。黙想の後半で、私たちは、イエス様ご自身が、私が
「いのちのパン」であると言われている事をしっかりと理解するでしょう。
(ヨハネ6.35参照)そして、イエス様は続けてこう言われました。「私のもとに来る人は
飢える事がなく、私を信じる人は渇くことがない。」
いつも導き、勇気付けて下さるイエス様のみことばを思い起こしましょう。毎日、
私たちが聖書を読む時や静かなひと時に、イエス様が私たちに何を語りかけて
おられるのかを探し続けましょう。イエス様がいのちのパンであられる事を受け入れ、日々、イエス様とのつながりをもっと深めていきましょう。
少なくとも週に1回(特に日曜日)、私たちが教会を訪れ、ミサに与り、ご聖体を
いただき、教会の隣人たちに手を差し伸べ、信徒ホールで何人かの仲の良い友人たちと
お茶を飲む事で、私たちは、イエス様とのつながりを深め、同時に、隣人たちの話を聞き、そして、隣人たちと共に、真に今を生きるのです。心を開いてこれらの事を行う時、
私たちは、あらためて導かれ、ほとんどすべての事が持つ新しい意味を見つけていきます。確かに、私たちの単純で謙虚な行いにでさえも、満ちあふれている神さまのみことばを、
私たちは見出します。それ故に、私たちはイエス様をいのちのパンとしていただいている
ので、寝る前のちょっとした感謝の祈りを唱えるようにと掻き立てられます。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙は、私たちに古い人を脱ぎ捨て、心の底から
新しい人を身につけるようにと、勇気付けてくれます。自分勝手でこの世の欲望のために
腐敗しきった今までの生き方は、キリストの救いによって示された新しい自分を作り出す
ことによって変えられます。いのちのパンとしてのイエス様を受け入れるという事は、
私たちが新しい自分であり続け、キリスト者としての生き方を根本的に受け入れるための
能力/力を与えてくれる事なのです。