イザヤ35.4-7a/詩編146.1+2+10a,6c+7,8ac+9bc/ヤコブ2.1-5/マルコ7.31-37
今日の朗読では、神さまからお受けする癒しと新生化の恩恵を、私たち皆が受ける事が
出来るのということを思い起こさせてくれます。癒しと新生化によって、私たちは、
神さまからのメッセージを真に理解する事ができるようになります。同様に、この癒しと
新生化によって、あらゆる階層の人々(選んだり、不必要な差別をすることなく)に、
自分たちの受けた癒しと新生化の経験を伝えるための勇気を得る事ができるように
なるのです。
身体的や精神的な病気の人々、そして、その他にもこの世界中での多くの挑戦をしている人々の悲しい現実として、私たちは、社会の中の弱者、貧困者、そして、声なき人々が、
しばしば追いやられてしまっているという事実/真実を否定することができません。
ここでは、どうしてイエス様のみ心が、いつも貧困にある人びとや助けを必要としている人々、そして、病者に向けられているのかを、一緒に理解していきましょう。彼らは、
しばしば、速やかな癒しや世話に対する配慮を奪われてしまっている人々です。
私たちは、イエス様に倣って、追いやられてしまっている人々に対して、神さまの正義と
心配りを持つようにと招かれています。物質的な富に囚われている考え方や生き方は、
どんなものであろうとも、キリスト者の信仰に反するものです。ですから、私たちは、
私たちの信仰に基づいた生き方をするようにと招かれているのです。
日々、神さまが私たちに招かれている信仰に基づく生き方は、私たちにもっと深い挑戦を
与えてくれます。貧困にある人びとを助け、病気の人を訪ねる事ために、私たちの自己的な日常の予定をほとんど変えたりする必要はありません。社会の片隅に追いやられている
人々のために費やす時間や労力は、不都合や面倒な事として、私たちの外出やその日の
予定を遅らせる事になるかもしれません。さらに、私たちは、度々、これらの人々へ
私たちの思いを向ける事で、なんの得があるのかと自問してしまいます。
イエス様が耳の聞こえない人を癒されたという事は、私たちが信仰のうちに毎日を送る
ようにという神さまからの招きを、とてもよく表しています。イエス様は、ある男性を
耳が聞こえ、口がきけるように癒されたという事が福音の中に記されています。
私たちも、イエス様のメッセージを真に聞くことのできる良い耳に、また、私たちの
受けた癒しや新生化を隣人たちに勇気を持って語る事の出来る良い口にしていただくという同じ癒しを受けているのです。
イエス様のメッセージを真に聞き、私たちの受けた癒しと新生化について勇気を持って
語る事によって、私たちは、貧困にある人びとや、助けを必要としている人々、そして、
病気の人々に対して、もっと強い愛を持つ事ができるようになるのです。
私たちが、寛大な心を持って(公平または公正に)、自分たちのためらい/不本意さから
脱して、いつも新しい自分に変わることができるよう、イエス様への信仰と信頼を持ち
続けましょう。