イザヤ40.1-5,9-11/テトス2.11-14,3.4-7/ルカ3.15-16,21-22
ヨルダン川でのイエスさまの洗礼は、私たち皆が心から理解し、認識し、実際に行うようにと私たちを招いている、いくつかの事柄をはっきりと示してくれます。イエス様は、
ご自身の洗礼を通して、ご自身を人間と同じにされています。それ故に、私たち
一人ひとりの洗礼の基盤は、イエスさまの洗礼を礎としているのです。けれども、
イエスさまは、人類を絶え間なくお救いになる一方で、罪を犯されず、神性を保たれて
います。私たちは、この地上でもたらされる不安や誘惑の中で、少なくとも私たち自身が、イエスさまと一致するために努力するよう召されているのです。
ヨルダン川でのイエスさまの洗礼は、私たち自身が、御父のみこころに従うようにという
召命についても、物語っています。イエスさまの洗礼は、イエスさまご自身も、神さまの
人類への救いのご計画に従っておられることを意味しています。確かに、キリストの
洗礼は、救いの働き、あるいは救いの約束を果たされるために起こる事柄への寛容さと
受け入れを表しています。
ヨルダン川でのキリストの洗礼は、すべての私たちが、イエスさまと固く結ばれる事を
意味しています。私たちは水と聖霊によって洗礼を授けられ、そして、この事は、神さまが人類をお救いになるという、今もなお行われている救いのご計画に、私たちも与る事で実現されるという事をも表しているのです。私たち一人ひとりの洗礼は、私たちの毎日の生活の新たな始まりです。ヨルダン川でのイエスさまの洗礼が、ガリラヤでのキリスト者の
集まりの始まりとしてよく理解されているように、人々への宣教に加わる事は、私たちが
洗礼を受けた時から始まっているのです。