2025年5月4日・復活節第3主日(C)
- Bahay San Martin
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Updated: 12 hours ago
使徒言行録5.27b-32,40b-41/詩編30.2b+4,11+12,13/黙示録5.11-14/ヨハネ21.1-19
私たちは、今日の朗読によってまた、使徒たちが愛と献身を持ってどのように信仰のうちに生き抜いてきたのかという事について知ろうとしています。使徒たちは、試練や辱めにも
かかわらず、心の確固たるものを私たちに示し、最終的には、福音のために苦しみを
受けるに値する者とされました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの
者にされたことを喜びました。」(信徒言行録5-41)イエス様の本当の弟子たちは、特に
そう呼ばれる時に、勇敢であるようにと召されています。イエス様のご受難にどうにか近づけるよう分かち合うという事は、イエス様の栄光を分かち合うという事です。おそらく、
使徒たちは、たとえ福音を宣言することが苦しみを伴ったとしても、自分たちの愛と献身と喜びの内にある信仰を、勇気を持って生き抜いたのです。
使徒たちが実行し、経験したことのすべては、彼らの生き方において、ともにおられる復活されたキリストの存在に気が付く事だけでは十分ではありませんでした。使徒たちが
イエス様の存在と喜びを認めるという事は、まわりの人びとに自分たちの「喜びの経験」を伝える事によって、それが正しいものであるという理解をもっと深いものにしました。使徒たちは、自分たちの船や自分たちのためだけの生き方に、もはや戻る事はできません。
聖ペトロとその仲間たちの役割、つまり、現在の教会の役割は、「ひつじたちを養う」ということばによって表されています。これに伴う責任は、私たち皆の(教会に属している一人ひとりの)自己献身、そして、多分、祈りの生活、あるいは復活されたキリストとの個人
的なつながりの程度に応じて果たされています。ひつじたちを養うという事は、確かに、
聖ペトロの後継者や、教会で認められた秘跡への権限を与えられているすべての人々に課せられた責任です。これは、両親や教師、例えば、政府や霊的指導者、そして、お互いに兄弟姉妹である私たちの持つ責任と同じです。実にこれは、意欲的である事、あるいは、
自己中心から脱する事や私たちが出会う人々に対して、単にできる限りの寛大さを持つ事なのです。そして、意欲を持って、また、「イエス様のひつじたちを養う」というご計画に
加わるために「外に出て、人びとと出会う」心を駆り立てましょう。