ゼカリヤ9:9-10・詩編 145.8+9, 10+11, 13ab+14・ローマ 8.9.11-13・マタイ 11.25-30
私たちの前回の朗読によると、イエス様に従うには、徹底的な教えがあります。クリスチャンの弟子と呼ばれるためには、神さまに仕える時、同時に物質的な財産やこの世の多くのものへの執着を切望することはできません。私たちは、家族を社会の基本的な集まりと考えてきましたが、先週の日曜日の福音で、イエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言われています。このような徹底的な教えを守りイエス様に従うのは、困難ではありませんか。
しかしながら、今日の福音朗読では、イエス様の軛は負いやすく重荷は軽いので、イエス様の軛を負って、イエス様のもとへ来なさいという招きを通して表された神さまのいつくしみを、私たちは簡単に見つけることができます。先週の日曜日に分かち合ったクリスチャンの弟子としての徹底的な教えと、真の平和、解放、喜びへのイエス様の招きの内にある神さまの温かさといつくしみとの間には、矛盾した見解があるように思われます。基本的に、私たちの今日の目的は、唯一の主イエス様と唯一の福音故に、私たちの福音のテーマがお互いに矛盾していないということを見出すことです。
第一朗読では、高ぶることなく、ろばに乗ってエルサレムの王が来ること、そして、王は、諸国の民に平和をもたらすことについて書かれています。ザカリヤの預言で王と重ね合わせられているイエス様は、また、今日の福音で、重労働をし、重荷を負っている人々を特に招かれており、平和をももたらしてくださるのです。
もう一度言いますが、私たちが持っているこの世のすべてのものを手放すことを伝えるクリスチャンの弟子であることと、そして、重荷を負っているすべての人へのイエス様の招きは、同等に重要な事であり、つまり、神さまの愛といつくしみ、そして、神さまとの一致を与えてくださることについて伝えているのです。ですから、今日の第二朗読では、どのようにして私たちが肉の内に生きてきたのか、どのようにして物質的な財産を私たちの唯一の宝や保障と考えてきたのか、そうして、私たちの心が肉に従って生き続けることについて思い返すようにと導いています。その結果、最後には私たちは神さまのみことばに飢えてしまい、気づかないうちに、私たちの生活が実際に厄介であるということにたどり着き、他の人々にも重荷を負わせてしまうのです。
私たちは、絶対的に(ずっと)イエス様と共にいるようにと呼びかけられています。イエス様の人生のビジョン、基準、そして価値観をもってイエス様と共にいることは、負いやすい軛と軽い重荷を運ぶことです。イエス様と他の人々と共に軛を負うことは、弟子となるための犠牲が軽くなるのです。