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4月2日・受難の主日 (A年)


私たちは、復活徹夜祭のミサで洗礼を受ける人々のために、この四旬節の間の主日のミサで共に祈っています。私たちの洗礼について、私たちは皆、今までの四旬節の朗読を理解しようとしました。洗礼志願者の方々にとっては、彼らが何を受け取るのかという祈りに満ちた期待溢れるものです。イエス様の教えから、基本的に私たちが食べ物や水のような日々切望しているもの以上に、より深く黙想すべきことが確かにたくさんあるということを学びました。私たちは、多分、私たちの浅い視覚と触覚を超えて、イエス様についての真理と、常にイエス様を知り、ついていくようにというイエス様の招きをもっとよく知るようにと招かれています。

  今日は、枝の主日です。私たちが、典礼年の中で最高潮な時期にいるということを理解することが大切です。今日の枝の祝福は、この四旬節のクライマックスへと導かれます。過ぎ越しの神秘を黙想することは、記憶を保ち、感謝祭の浅はかなお祝いをすることではありません。私たちが悪ではなく善を選び、無関心よりも愛を選ぶことで、私たちの心の回心は、イエス様と共に新しいいのちを生きることができるのです。

⑴ 神さまは、私たち皆に愛をお与えになります。神さまは、私たちと共にいてくださることについて、ずっと私たちに語りかけておられます。どんなに難しいと思われても、神さまの宣教に加わる勇気をお与えくださる神さまとの関係を保ち続けましょう。第一朗読イザヤの予言では、神さまの豊かなお恵みで、私たちは痛みや苦しみに忍耐することができるようになり、この世界の現実の中で、私たちは、神さまの豊かなお恵みで、赦しと憐れみと愛の良い種を植えることを選ぶことができるようになると書かれています。

⑵ 今日の朗読を聞き続けると、少なくとも二つの現実と、この「イエス様のご受難と死、そして、三日後のご復活」の多分その理由を認識します。

(a) 私たちのまわりで日々起こっていることへのとても人間的な判断と同様に、イエス様の時代でさえも、人々の間ではとても典型的な憎しみや偏見があり、そのために私たちには「イエス様のご受難と死」があるのです。当時の社会において、イエス様は、文字通り、政治的地位への脅威でした。イエス様の存在、みことば、行動がそうであったように、当時の宗教的権力者たちへの強い脅威でした。脅かされた人々は、イエス様に痛みと避けられぬ死を負わせなくてはならなかったのです。現在では、その人の権力に対して脅威と思われる人や、富と名声のための果てしない野心を満たすことへの脅威と思われる人を憎み、友人でなくするかもしれません。ここでも、イエス様がどうして十字架にかけられたのか、多くの理由を理解できます。ですから、福音のために迫害され、疎外され、そして、差別されている人々のために祈りましょう。

(b) 私たちクリスチャンの信仰のうちに、どんなに理解することが難しいように見えても、天の御父のご意思に従って、物事は起こるのです。この地上においでになったイエス様のすべての人への愛は、天の御父の無条件の愛と同じです。イエス様は、ご自分を愛する人々への愛と、回心のための敵への愛のために、自らをお捧げになりました。天の御父の永遠の愛と慈しみは、イエス様の犠牲を通して、イエス様をもっと痛みと苦しみにと導いた脅かされた人々の憎しみを通して、罪を除いて、私たちと同じ人間としてのイエス様のすべての弱さを通して、明らかにされます。


⑶ イエス様がご自分を無にされたことで、脅かされた人々の手に渡されたイエス様のご受難と、十字架上での死は、すべて本当に意味のあるものとなりました。ご自分を無にされたことによって、イエス様をお遣わしになった御父の聖霊に満たされたのです。ですから、日々の生活の中で、私たちもまた、どのようにして自分を無にし、そして、どのようにして私たちの心を神さまが統治されるのかを学ぶのです。私たちは、イエス様の聖霊が実際に育まれる助けとはならず、そして、イエス様と共に新しいいのちを生きる助けとはならない多くの事でいっぱいになってしまっていることに気づいていないのかもしれません。

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