今、私たちは皆、今年の待降節で得た実りを思い起こし味わっています。何よりもまず、
私たちの共同体のすべての信徒とその家族、そして、私たちが出会うすべての人々が、
クリスマスを喜び、平和な新年を迎えるようにという願いが、私たちのこころから溢れ出ています。
多分、洗礼を受けている信徒に対してのみではなく、何よりも私たちの隣人たちに対して、祈りたいと思っているすべての人々や、私たちの救い主の事をもっと深く知りたいと望んでいる人々に対して、私たちのほとんどが、自分たちの教会/祈りの家のとびらを開き
続けようと努力している事に気付いている事でしょう。今年のイエス様のご降誕のお祝いに際して、私たちの教会と祈りの家がすべての人々に対して開かれたものであるようにという願いが、ずっと叶えられますように。
いつも開かれた教会でありたいという私たちの願いのうちに、今のこの世界でのイエス様のご降誕について、そして、その目的はすべての人々のためであるということを、私たちは
もっと深く理解するのです。教会があるという事は、すべての人々のためであるという
事を、一人でも多くの人々に知ってもらえるように願い続けましょう。
キリスト者となった最初の時から、私たちが洗礼を受けた教会は、その教会から外に出て、近隣の人々に手を差し伸べるように、そして、本当に私たちの保護を必要としている人々のいる場所や、その他の多くの人々のところへ行くようにと、私たちを勇気づけてくれて
います。すべてのこのような人々に、私たちが手を差し伸べる事で、皆が私たちの内にある聖霊とイエス様の愛に、心を開くことができますように。また、私たちが彼らに手を差し
伸べることで、彼ら全員が、人生の初めからすでに彼らの中にも聖霊の導きとイエス様の
存在があることに気づくことができますように。私たちが、イエス様と皆が繋がるための
道具となれますように。その結果として、もうすでに彼らと一緒に教会に戻り、私たちの
信仰共同体の他の信徒たちと共に祈る事ができますように。私たちが、教会という祈りの
場と信仰のある人びとを、ひとりでも多く見出すことができますように。いずれにしても、彼らが孤独を感じたり、神さまのみことばに渇く時、家族同様に思える人々と共に自由に
出入りできる場所があるという事を、彼らが忘れたりすることがありませんように。
私たちよりも以前の人々は、イエス様が実際にベトレヘムでお生まれになった時、この
世界の私たちの救い主であるイエス様がおいでになった事を目の当たりにしました。
私たちは、イエス様が再びこの世界においでになる事を喜びのうちに待ち望んでいます。
そして、イエス様がおられる事をほんとうに体験できるよう、毎日、私たちはこころを
開いています。聖なる祭儀であるミサでは、私たちは、パンの姿をされたイエス様を
いただきます。隣人たちに手を差し伸べるという事は、単に、この世界で自分たちの時間を隣人たちのために費やしたり、物質的に困っている隣人たちに有り余っている物の残り物を分け与えるという事ではなく、ベトレヘムでひとの子としてお生まれになったイエス様と、ほんとうの交わりを持つという事であると、私たちが気付く(本当の意味で気付く)ことができるようになりますように。
皆で勇気を持って、もっと手を差し伸べ、教会があって、「私たち」がいて、ご聖体が
あるという事を、隣人たちに伝えましょう。クリスマスの持つ意味を、心の底から、臆することなく広めていきましょう。
皆さんが、喜びあふれるクリスマスと平和な新しい年を迎える事ができますように。